1835年(天保6年) |
0歳 |
- 正月7日、越後国頸城郡津有村下池部(現在の新潟県上越市)で誕生。父は300年続く天領の豪農、上野助右衛門(8月11日病没)、母は高田藩士伊藤源之丞の妹てい(貞)、上野家の次男として生まれ、幼名を房五郎という。
|
1839年(天保10年) |
4歳 |
- 母とともに上野家を出て、高田に移る。母から詩歌の暗記のほか、錦絵や往来物で教育を受ける。
|
1842年(天保13年) |
7歳 |
- 6月、母と越後国糸魚川に移る。糸魚川藩の藩医で叔父の相沢文仲に養われ、医学を志す。同藩士銀林玄類に医学の古典を学び、後に竹島俊司などに書や茶事を学ぶ。
|
1845年(弘化2年) |
10歳 |
- 母と別れ、3月に高田に遊学。藩の儒学者倉石典太の塾で学ぶ。
|
1847年(弘化4年) |
12歳 |
- 9月、オランダ医学を学ぶため江戸に出る。一関藩(岩手県)儒都沢徹の塾生になり、後に開業医上坂良庵の学僕となる。
|
1848年(嘉永元年) |
13歳 |
- 幕府の官位、添田玄斎の薬室生になり、後に幕医長尾全庵家の食客になる。
|
1849年(嘉永2年) |
14歳 |
|
1851年(嘉永4年) |
16歳 |
- 政治兵法などの本を筆耕し、兵式や西洋事情、また当時の世情を知る。
|
1853年(嘉永6年) |
18歳 |
- ペリー提督が軍艦4隻で来航。接見役、井戸石見守の従者になり、浦賀港に赴く。
|
1854年(安政元年) |
19歳 |
- 国防考察のため、港湾を見て回る。北陸道、山陰道を経て、下関から船で豊前小倉に渡る。九州西海岸を経て、長崎に至り、肥後、日向を経て四国に入る。伊予、讃岐から紀伊に渡り、伊勢から船で三河に渡る。東海道を東上して伊豆、下田に至り、船で江戸に帰る。
|
1855年(安政2年) |
20歳 |
- 旗本の設楽弾正の屋敷に移り、設楽の兄岩瀬忠震に接し英語を学ぶ必要性を感じる。幕府の砲術家下曽根金三郎に西洋砲術を学び、設楽の臣中条某に数学を学ぶ。
|
1856年(安政3年) |
21歳 |
- 磐城平(福島県)藩士、槙徳之進に長沼流の兵法を学ぶ。
|
1857年(安政4年) |
22歳 |
- 観光丸の運用長竹内卯吉郎に機関学を学ぶ。竹内の援助で軍艦教授所の生徒になり、見習生として観光丸に乗船する。
|
1858年(安政5年) |
23歳 |
- 巻退蔵と改名し、東北海岸の旅を経て、函館に赴く。諸術調所の武田斐三郎に航海術を学ぶ。
|
1859年(安政6年) |
24歳 |
- 函館丸に乗り込み、約7カ月の航海実習を行なう。日本を周回し、測量を行なう。
|
1860年(万延元年) |
25歳 |
- 函館奉行の命により函館丸測量役になり、約3カ月の航海を行なった後、江戸に帰る。
|
1861年(文久元年) |
26歳 |
- ロシアの軍艦ポサドニック号が対馬に侵入。事件処理を担当する外国奉行組頭向山英吾郎に随行して対馬に赴く。
|
1862年(文久2年) |
27歳 |
- 長崎に滞在しアメリカ宣教師ウィリアムズやフルベッキなどから英語・数学などを学ぶ。
- 松江藩(島根県)八雲丸の機関士長の嘱を受ける。
|
1863年(文永3年) |
28歳 |
- 福井藩(福井県)の黒竜丸に乗り込み、機関士長兼教授になり藩主松平慶永(春獄)候から短刀を贈られる。
- 何礼之に従い江戸に出て洋行を企てるが果たさず、長崎に帰る。
|
1864年(元治元年) |
29歳 |
- 長崎で苦学生のために瓜生寅と共に私塾倍社を開く。和歌山藩(和歌山県)の蒸気船明光丸の機関士長として和歌浦まで往復する。
|
1865年(慶応元年) |
30歳 |
- 鹿児島藩(鹿児島県)の招きに応じ、鹿児島開成学校で英語を教える。待遇は薩摩藩士。
- 兄又右衛門死去の知らせで郷里に帰る。
|
1866年(慶応2年) |
31歳 |
- 江戸に出て、幕臣前島錠次郎の養子になり、名を来助(輔)に改め、牛込赤城下町に住む。
- 「漢字御廃止之儀」を将軍徳川慶喜に提出する。
- 幕臣清水与一郎の娘奈何(仲子)と結婚する。
|
1867年(慶応3年) |
32歳 |
- 開成所数学教授になる。
- 神戸開港に伴い、兵庫奉行の手付出役として神戸に行き、港の事務に当たる。後に兵庫奉行支配指定役になる。
- 大政奉還を知り「領地削減之儀」を将軍徳川慶喜に提出する。
|
1868年(慶応4年・明治元年) |
33歳 |
- 兵庫奉行支配役になり、翻訳方を兼務する。
- 江戸に戻り、勘定役格徒歩目付役になり、平岡一に属し官軍迎接役として小田原まで出張するが果たせず、江戸民生の安寧に努める。大阪まで出向き、大久保利通に江戸遷都を建言する。
- 大政奉還後、駿河藩(静岡県)留守居添役、同本役になり、間もなく同藩公用人になる。
|
1869年(明治2年) |
34歳 |
- 駿河藩浜松添奉行になり同藩遠州中泉奉行になる。後に静岡藩開業方物産掛に。このころ密に改名。
- この年の暮れに明治政府に召され、民部省九等出仕になり、改正掛に出仕する。
|
1870年(明治3年) |
35歳 |
- 鉄道建設のための建設費と営業収入の見積もりを記した「鉄道憶測」を作成する。
- 4月租税権正(従7位)になり、5月駅制改革のための駅逓権正を兼任する。6月東海道の宿駅を利用した新式郵便制度を立案。
- 大蔵大丞上野景範の差添として6月24日(新暦7月22日)イギリスに赴く。その間郵便事業などの後任は、杉浦譲。イギリスで余暇に郵便事業を学ぶ。
|
1871年(明治4年) |
36歳 |
- 3月1日(新暦4月20日)郵便創業。新聞低料送達の条文を規則に加える。
- 8月11日(新暦9月25日)イギリスから帰朝し、17日駅逓頭になる。
- 度量衡改正掛長を兼務する。
|
1872年(明治5年) |
37歳 |
- 大蔵省四等出仕になり、駅逓頭兼任になる。
- 郵便報知新聞の創刊に関与する。
- 陸運元会社(現在の日本通運株式会社)の設立を助ける。
- 母の貞(明治11年没)を東京に呼び寄せる。
|
1873年(明治6年) |
38歳 |
|
1874年(明治7年) |
39歳 |
- 駅逓頭専任になったが、間もなく内務大丞になり、駅逓頭を兼任する。
- 諸規則取調掛長兼務になる。
|
1875年(明治8年) |
40歳 |
- 清国上海に出張する。
- 郵便為替、郵便貯金の取り扱いを開始する。生命保険、養老年金についても構想を持っていた。
|
1876年(明治9年) |
41歳 |
- 内務少輔になる。
- 楽善会に入会し、訓盲院設立(明治12年落成)に尽力する。
|
1877年(明治10年) |
42歳 |
- 駅逓寮を駅逓局に改称し、駅逓局長を兼務。
- 西南戦争のため内務卿の大久保利通に変わって内務省の省務をみる。
- 川路大警視に代わって警視庁重要事務監視をする。
- 第1回内国勧業博覧会審査官長になる。
- 万国郵便連合に加盟する。
|
1878年(明治11年) |
43歳 |
- 地租改正局三等出仕に兼補される。
- 元老院議官兼任になる。
- 勧農局長兼務になる。
|
1879年(明治12年) |
44歳 |
|
1880年(明治13年) |
45歳 |
- 内務大輔になる。
- 駅逓総官になる。
- 日本海員掖済会発足に尽力。前島密は若いころから海運が重要なことを認めていた。
|
1881年(明治14年) |
46歳 |
- 農商工上等会員になる。
- 勲三等旭日中授章を受ける。
- 逓信総官を辞し、野に下る。大隈重信らと行動を共にし、立憲改進党結成に尽力する。
|
1882年(明治15年) |
47歳 |
|
1887年(明治20年) |
52歳 |
- 東京専門学校(早稲田大学の前身)校長になる。
- 関西鉄道株式会社社長になる。
|
1888年(明治21年) |
53歳 |
- 11月20日、逓信大臣榎本武揚に請われ、逓信次官になる。
|
1889年(明治22年) |
54歳 |
|
1890年(明治23年) |
55歳 |
- 東京郵便電信学校の設立に尽力する。
- 明治24年度予算政府委員になる。
- 電話の交換業務を開始する。
|
1891年(明治24年) |
56歳 |
|
1893年(明治26年) |
58歳 |
|
1896年(明治29年) |
61歳 |
- 北越鉄道株式会社社長になる。
- 東洋汽船株式会社監査役になる。
|
1899年(明治32年) |
64歳 |
|
1900年(明治33年) |
65歳 |
|
1901年(明治34年) |
66歳 |
|
1902年(明治35年) |
67歳 |
- 国語調査委員会官制公布され委員になる。
- 勲功により男爵を贈られ、華族に列せられる。
|
1903年(明治36年) |
68歳 |
|
1904年(明治37年) |
69歳 |
- 貴族院議員になる。
- 帝国教育会から賞牌を贈られる。
|
1905年(明治38年) |
70歳 |
|
1906年(明治39年) |
71歳 |
- 勲二等瑞宝章を受ける。
- 日本会員掖済会から有功章を贈られる。
|
1908年(明治41年) |
73歳 |
|
1910年(明治43年) |
75歳 |
- 貴族院議員を辞し、ほとんどの職を辞して若いころ旅した九州各地を旅行する。
|
1911年(明治44年) |
76歳 |
- 神奈川県西浦村(現在の横須賀市芦名)に別邸・如々山荘を設け、隠退する。
|
1915年(大正4年) |
80歳 |
|
1916年(大正5年) |
81歳 |
|
1917年(大正6年) |
82歳 |
|
1919年(大正8年) |
84歳 |
|