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前島密
前島密(1835年から1919年)
越後国(現在の新潟県)生まれ。享年84歳。「縁の下の力持ちになることを厭うな。人のためによかれと願う心を常に持てよ」という信条どおり、近代化が進む日本でまさしく陰ながらより便利でより快適な暮らしの方法を提案し続けた。肖像画は、明治末ころのもの。向かって右えりに勲二等瑞宝章のバッジ、左えりには当時の貴族院議員記章が描かれています。
明治のはじめ、日本に郵便の仕組みを築いた前島密(まえじまひそか)。「日本近代郵便の父」と呼ばれ、現在でも1円切手の肖像として有名です。
前島密は郵便の創業者としてその名を不動のものとしていますが、郵便関連のほか、江戸遷都、国字の改良、海運、新聞、電信・電話、鉄道、教育、保険など、その功績は多岐にわたります。
ここでは前田青邨監修のもと守屋多々志画伯によって描かれた「前島密業績絵画」によって偉業をご紹介します。
前島密の歴史と主な業績をまとめた年譜はこちらでご覧いただけます。
漢字廃止を建議(けんぎ)
前島密は、1866年(慶応2年)に「漢字御廃止之議」という建議書を将軍徳川慶喜に提出しました。これは、国民の間に学問を広めるためには、難しい漢字の使用をやめるべきだという趣旨のもので、わが国の国語国字問題について言文一致を提言した歴史的な文献です。彼は青年時代、江戸から帰省したとき、みやげの絵草紙と三字経を甥に教えてみて、漢字教育の難しさを痛感し、漢字廃止を思い立ったそうです。その後も、国語調査委員としてこの問題に取り組みました。
江戸遷都を建言(けんげん)
明治政府は新しい首都をどこにするか検討していました。前島密は、1868年(慶応4年)に大久保利通の大阪遷都論を読んで、これに対し、遷都の地はわが国の中央にあたる江戸でなければならないと大久保に建言しました。
この意見は大久保を動かし、その実現を見ました。この年7月江戸は東京と改められ、9月に天皇は東京へ行幸になり、江戸城は皇居となったのです。
鉄道敷設の立案
前島密が明治政府に出仕して間もない1870年(明治3年)、上司の大隈重信から、鉄道の建設費と営業収支の見積りを作るよう命じられました。
当時わが国には、その標準となるような資料は全くありませんでしたが、彼は苦心の末に精密な計画案を作り上げました。のちにこれを見た外国人はその的確さに敬服したといいます。彼はこの案に「鉄道臆測」と名づけました。
品川横浜間に鉄道が仮開業したのは1872年(明治5年)5月、新橋横浜間の正式開業は9月のことでした。
郵便創業
1871年(明治4年)3月1日(新暦4月20日)、東京大阪間で官営の郵便事業が開始されました。これは前島密の発議によるものでした。
そして彼は、大蔵省や内務省の官僚としての仕事をこなしながら、1870年(明治3年)から11年間もの長い間郵政の長として、熱心にこの事業の育成にあたり、その基礎を築きました。そのため「郵便の父」とたたえられています。
「郵便」や「郵便切手」などの用語は、彼自身が選択した言葉です。
新聞事業の育成
前島密は、欧米社会を見聞して、広く世間の出来事を伝える新聞が必要なことを痛感し、その発達を助けるために、1871年(明治4年)12月新聞雑誌の低料送達の道を開きました。
その翌年6月には、自ら出版者を勧誘し、太田金右衛門に郵便報知新聞(のちの報知新聞)を創刊させました。
また、1873年(明治6年)には記事の収集をたやすくするため新聞の原稿を無料で送れるようにしました。
陸運元会社を創立
江戸時代から陸運業務と併せて信書送達を行なっていた定飛脚問屋(じょうびきゃくどんや)は、郵便事業に強く反対していましたが、前島密の説得を受け入れ、1872年(明治5年)6月に日本通運株式会社の前身となる陸運元会社を設立しました。
この会社は、全国の宿駅に誕生した陸運会社を統合し、郵便輸送を中核として貨物専門の近代的な通運会社として発展しました。
海運政策の建議
前島密は、海運の大切なことに着眼し、函館では自ら廻送(かいそう)業者の手代に加わって、その実務を体験しました。
1872年(明治5年)日本帝国郵便蒸気船会社が生まれたのも、彼の意図によるものでした。
1875(明治8年)、大久保利通は、前島密の建言によって、画期的な海運政策を建て、岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社(当時「三菱商会」)を補助して、その政策を進めることとなりました。
これが今日の日本郵船株式会社の前身です。
近代海運はこのときから始まったといわれています。
郵便為替を開始
1875年(明治8年)1月、郵便為替が始められました。前島密は、イギリスでの経験から郵便創業の翌年、経済拡大には郵便為替の実施が必要だと建議しましたが運転資金や取り扱い者の技術的な問題もあって、採用には至りませんでした。
しかし彼の熱意により、郵便に遅れることわずか4年で、その創始を見ました。
郵便貯金を開始
1875年(明治8年)5月、東京横浜の両地で郵便貯金の取り扱いが開始されました。
前島密は、イギリスで郵便貯金が国民の生活や国家の発展に大きな役割を果たしているのを見て、わが国でもこれを実施することにしました。
しかし当初は、なかなか一般に理解されないので、彼は私金を出して、それを貯金発端金として預けさせるなど、奨励には苦心しました。
訓盲院(くんもういん)の創立
1876年(明治9年)に視覚障がい者の教育を目指す楽善会(らくぜんかい)に入会した前島密は、杉浦譲(すぎうらゆずる)など同志の人たちとともに私金を出し合い、訓盲院の設立に力を尽くしました。
1879年(明治12年)に完成した訓盲院は、その後文部省へ移されましたが、彼は引き続き同校の役員として、長くその運営発展に力を注ぎました。
そのため1917年(大正6年)の皇后陛下行啓(ぎょうけい)の際、彼は特に召されて、お言葉を賜りました。
訓盲院は、現在の筑波大学付属盲学校の前身です。
勧業博覧会の開催
維新後、前島密は静岡藩において開業方物産掛(かいぎょうかたぶっさんがかり)として産業振興に取り組んだ経験を持ち、産業奨励に深い関心がありました。大久保利通は前島の主張を取り入れ、勧業博覧会を内務省の所管として、1877年(明治10年)、東京上野で第一回勧業博覧会を開催し、前島を審査官長に命じました。
この博覧会は、わが国の産業発達に大きな影響を与えました。
日本海員掖済会(えきさいかい)の創立
前島密は、1880年(明治13年)、海員の素質の向上とその保護救済などを目的とする日本海員掖済会を発足させ、その後も長くその発展に尽力しました。図は1881年(明治14年)6月東京南品川の心海寺に設けられた海員寄宿所です。ここで海員の寄宿と乗船の仲介を行ないました。
また、海員養成、無料職業紹介、診療事業を行ない、殉難職員の遺族に対する慰藉(いしゃ)、海員の養老扶助まで事業を拡大しました。
東京専門学校の創立
1882年(明治15年)、早稲田大学の前身、東京専門学校が創立されました。この学校は学問の独立を主張する大隈重信の発意で生まれたものですが、前島密はその創立に参画してこれを助けました。その後、1887年(明治20年)に校長に就任し、財政の独立など経営上の困難な問題の解決にあたり、また校長を退いたのちも、長く同校の発展のために尽くしました。
電話の開始
1890年(明治23年)12月、東京・横浜市内とその相互間ではじめて電話の交換業務が開始されました。
電話事業については、1883年(明治16年)以来官営にするか民営にするか議論されていました。
前島密は1888年(明治21年)逓信大臣だった榎本武揚(えのもとたけあき)の依頼で逓信次官に就任すると、官営に意見を統一し電話事業を開始しました。