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注目選手インタビュー Vol.6 (別所 キミヱ選手:前編)

注目選手インタビュー
Vol.6 (別所 キミヱ選手)
前編

東京2020に向けて日本郵便が注目する選手をご紹介します。
6人目は、リオデジャネイロ2016パラリンピック日本代表選手団の最年長選手(当時68歳)としても注目を集め、今なお現役で活躍する別所キミヱ選手です。
ボリュームたっぷりのロングインタビューを、前・後編に分けてお送りします。

別所 キミヱ(べっしょ きみえ) パラ卓球(車いすクラス5)

別所 キミヱ(べっしょ きみえ)
生年月日 1947年12月8日
出身 広島県
経歴 結婚を機に兵庫県へ移住後、43歳の時に仙骨巨細胞腫(せんこつきょさいぼうしゅ)を患い、車いす生活に。45歳でパラ卓球に出会ったのち、アテネ2004大会、北京2008大会(5位入賞)、ロンドン2012大会、リオ2016大会と4大会連続で、日本代表選手としてパラリンピックに出場。蝶々の頭飾りがトレードマークで、「マダムバタフライ」の呼び名を持つ。明石西郵便局にて勤務経験が有り、2015年から日本郵政株式会社が協賛中。

Q:最初に、卓球を始められたきっかけを教えてください。

A:きっかけはたまたま新聞の記事を読んで、障害者スポーツを知って体育館へ行ったことです。それまで、卓球をしたことはなかったです。
でも、障害を持ってからすぐはスポーツをしようかなという気持ちは、全然ありませんでした。とにかく体の調子が悪くて。ずーっと手術したあとも、体が痛くて、5分も座っていられないような状態だったんです。手術でお腹や腰、背中の方までメスが入ってましたから、体がしびれてて、足も痛かったんです。
最初は座る訓練のために編み物とか手作りのことを始めて、それが5分、10分というぐあいに長くなって、だんだんと座れるようになっていきました。それでも、1年くらいは痛み止めの注射も効かないような状況が続いていました。同時に病院では「もっと動いたりしないと何もできないよ」とも言われていました。
身体は痛むけど、このまま社会との繋がりを持てないのは嫌だなと考えていた頃に見つけたのが、最初にお話しした新聞記事でした。記事では、バレーボールやテニス、バスケットボール等々いろいろな競技が紹介されていましたが、室内で気軽にできるのは卓球しかなくて。それで、未経験だけど卓球をやってみることにしたんです。

Q:最初は、社会に出たいというお気持ちからの行動だったのですね。それはおいくつの頃だったのでしょうか。

A:手術を受けたのが43歳、その後卓球を始めたのが45歳でしたね。
仙骨巨細胞腫という病気はかなり珍しい症例で、当時私は知らなかったのですが、息子たちは「余命の覚悟をするように」と担当の先生から言われていたみたいです。そんな中でも、病院の先生をはじめスタッフの皆さんが力を尽くしてくださって、生き延びることができました。また、治療中には何回もたくさん輸血を受けて......これってたくさんの方の力をいただいて助けられたということじゃないですか。だから、「せっかく生かしていただいたこの命、何もしないわけにはいかない、自分の人生やし。頑張らなあかん。」と思うようになりました。

Q:卓球を始められた当初は、どんな取り組み方だったのですか。

A:最初は、病院で乗るような重たい普通の車いすで、レクリエーションとしてやっていたんです。我ながら、最初のころから結構上手かったんですよ(笑)。ラケットにどんどん球が当たって、楽しくて。当時の卓球仲間は10名くらいで、その半分が車いすの人でした。近隣の市からわざわざ通っている人もいたりして、刺激を受けましたね。当時私はまだ車に乗れなかったので、息子に送迎してもらったり、卓球仲間の車に乗せてもらったり、タクシー使ったりしていたけれど、やっぱり不便で。車いす用の運転免許と車を手に入れようと決意しました。同時期に、手に職付けようということで高等技術専門校への受験も決意していて、子どもとは「学校受験に合格しないと、車は持っちゃダメ」と約束しまして、子どもから中学・高校の参考書借りて、必死に受験勉強したんです。
その後、なんとか無事に約束を果たして、車を手に入れました。それからは一気に行動範囲が広がりました。
1995年阪神淡路大震災の直後に仕事が見つかり就職したので、それからは仕事と卓球の両立生活になりました。居住している明石市から神戸の三ノ宮にあった職場まで通っていて。当時は震災の影響で道路事情も悪くて、通常片道1時間くらいの距離が3時間以上かかることもありましたね。仕事は週4日8時から16時までのフルタイムで、残りの3日で卓球練習をしていました。

Q:練習するコミュニティも増えられたんでしょうか。

A:それが、そううまくはいかなくて。毎週水曜日には地域のママさん卓球教室があったので、そこに参加したりしていましたが、当時はバリアフリー設備が整っている施設がなくて。練習場所確保にかなり苦労しました。どこに行くにも階段だし......練習仲間に協力してもらって、抱えて運んでもらい何とか対応していましたよ。特に、車いすで使えるトイレがないことが困りごとでしたね。世の中の理解も進んでなくて、「車いすは危ないから、一般の人といっしょに施設を利用することはやめて」と言われてしまうこともありました。
そのころに比べれば今はだいぶん良くなってきてはいるけれど、海外遠征すると、日本のバリアフリーはまだまだ足りていないと感じます。東京2020パラリンピックが決まって理解は深まってきたと感じるので、もっとこれから社会が変わっていくことに期待しています。

Q:話は戻りますが、最初は社会との繋がりを求められて卓球を始めて、そこからどのように世界を目指すまでになっていったのでしょう。

A:当時はパラリンピックどころか、パラ卓球の全国大会があることすら知らなかったんですよ。卓球は遊びでやってて、身近で大きな試合に出る人がいなかったんですよね。それが、レク大会で岡山県まで足を伸ばすことが1回あって、そこで日本一を決めるような大会が開かれているってことを知りました。それから、練習がんばるようになったのかな。せっかくなら一度、出場したいなと思って。
それで、地区予選に出場して結構優勝するようになって。そこからは全国大会でベスト4に入ることを目標に頑張りましたね。1997年に山口県で開催された大会が、私の全国大会デビュー戦でした。全国大会に出るようになってからは、いろんな大会の情報が集まってくるようになって、横浜、新潟、岡山...たくさん遠征して、上位で戦えるようになりました。ただその時点でもまだパラリンピックの存在は知らなくて、そもそも海外で戦うなんて考えてもいなかったんです。
それが変わったのが、1999年に出場したアジア地区の大会ですね。そこで初めて香港の選手に1勝して、国際大会初勝利できたんですが、じつはその香港の選手が世界チャンピオンだったということを試合後に知って(笑)。あれ、これもしかしたらイケるんちゃうか?と思ってから、積極的に国際大会を目指すようになりました。

Q:だんだん別所さんの存在が世界に知られだしたんですね。

A:アジアの大会に出るようになって、知らぬ間に世界ランキング20位台の後半くらいに入っていました。そんなある日、パラ卓球の関係者の方から「世界大会で棄権者が出たんだけど、別所さん出る?行くなら今、返事が欲しいんだけど」と声がかかり、即答で行きます!と答えました。

Q:初の世界大会は繰り上げ出場だったんですか!

A:そう。それで出場したら、なんとベスト4に入れちゃったんですよ(笑)。その結果、世界ランキングが一気に16位に上がりました。そこからは、じゃあ来年は14位に、その次は10位を目標に...といった具合で目標を立てて、練習や海外遠征プランを立てるようになりました。私、お正月に目標を紙に書いて壁に貼っとくんですよね。それである年、「世界ランキング8位」と目標立てて、それが達成できてからは今まで、2桁に落ちてないです。新しい人がどんどん入ってくるし、中国の選手にはなかなか勝てないし、毎年大変ですけどなんとかキープしています。
世界ランキングを維持できていることで、4回もパラリンピックに行かせてもらえています。

Q:苦労しながらも世界で戦い続けたくなる、パラ卓球の魅力はどこにあるのでしょう。

A:やめようかなと思った時もあるけれど、世界の選手の魅力っていうのがあって、みんな友達なんですよね、世界に行ったら。車いす女子はそこまで競技人口が多くないし、結構みんなすぐに辞めてしまうから、なかなか遠征時に練習相手がいなくて。だから、「キミヱって言います、お願いします」って男女問わずいろんな国の選手に声かけて、相手してもらうんです。最近印象的だったのだと、ブラジルの男子選手とかね。そういうフラットな感じで、どこの国もお友達がいっぱい増えて、それが大きな魅力ですよ。もう試合とか関係のない次元。試合会場に行ったら「バタフライマダムー!」って話しかけてもらえるし、韓国の選手は「お姉さん」って呼んでくれる。試合が終わったら、国関係なくみんなでおしゃべりするんです。日本のおかきをあげたり、ほかの選手が子どもの写真見せてくれて「プリティー!」って言ったり。日本語で「(大会遠征の時、)子どもどうしてるの」って聞いたら、向こうも自分の言葉と英語とかジェスチャーまぜこぜで「ベビーシッターに預けているんだ」とかいって。なんとなくでコミュニケーションがとれる(笑)。

Q:国境を越えた交流が別所選手を惹きつけているのですね!競技の面でも魅力を教えてください。

A:まず、分け方が障害別ですからね。10代だろうが20代だろうが80超えてようが、同じ障害クラスだったら戦うわけじゃないですか。例えば車いすクラス5だったら私がたぶん一番障害が重いんですよ。国外の選手には、普段は歩いていて競技時は車いすという人もいます。そのあたりすごいというか、厳しくも面白いところだと感じます。
自分よりも身体状態の良い選手にどう勝つのかっていうのがミソになる。どうやって勝つかなと言ったら、頭使うしかないんですよ。球のコースを狙って、相手を前後に揺さぶる。相手の取りにくいところ、届かないところに入れる。これはめっちゃ強い。私は今、右手の握力が11kgしかないんです。だから用具を軽くして、振り遅れないように工夫してる。これで球は打てるけど、スピードが出ないんです。ラケット重くすれば打った球は勢いが出るけど、今度は自分のリターンショットが遅れる。パワーじゃなく、頭脳戦で勝っていくしかないんです。
もちろん握力をつけるトレーニングはしているけど、でも難しい部分はあるから、その他で今の自分にできることを考えていく。パラリンピック競技って、できないことに注目するんじゃなく、自分ができることをいかに最大限使うか、自分がどういうふうに工夫していくかっていう部分が肝ですよね。私はそんなパワーもないし、めちゃめちゃ攻撃派でもないから、とりあえずブロックだけはしっかりしよう、と作戦立てたりね。

(後半に続く)